東照宮は日光山に久能山が有名だが・・・その関係はどうなっているのか?
東照宮は久能山と日光山が有名です。いずれも家康の遺言を実行したものです。晩年を駿府で過ごした徳川家康が元和2年(1616年)に死去した後、遺命によって久能山東照宮に埋葬された。その内容は、ウイキペディアによると、こうです。
家康は遺言として「臨終候はば御躰をば久能へ納。御葬禮をば增上寺にて申付。御位牌をば三川之大樹寺に立。一周忌も過候て以後。日光山に小き堂をたて。勧請し候へ。」としている。この遺言に従い、葬儀は増上寺で行われ「安国院殿徳蓮社崇誉道和大居士」という浄土宗の戒名がつけられた。 遺体は始め駿府の南東の久能山(現久能山東照宮)に葬られ、一周忌を経て江戸城の真北に在る日光の東照社に改葬される。
元和2年12月(1617年1月)には2代将軍・秀忠によって東照社(現・久能山東照宮)の社殿が造営された。家康の遺命は久能山への埋葬および日光山への神社造営であったので、日光山の東照社(現・日光東照宮)もほぼ同時期に造営が始まっている。日光山の東照社は3代将軍・家光の代になって「寛永の大造替」と呼ばれる大改築がされ、徳川家康を祀る日本全国の東照宮の総本社的存在となった。同時に家光は久能山の整備も命じており、社殿以外の透塀、薬師堂(現・日枝神社)、神楽殿、鐘楼(現・鼓楼)、五重塔(現存は無い)、楼門が増築された。
今回、久能山東照宮を見学して、その内容を知りました。
家康は遺言として「臨終候はば御躰をば久能へ納。御葬禮をば增上寺にて申付。御位牌をば三川之大樹寺に立。一周忌も過候て以後。日光山に小き堂をたて。勧請し候へ。」としている。この遺言に従い、葬儀は増上寺で行われ「安国院殿徳蓮社崇誉道和大居士」という浄土宗の戒名がつけられた。 遺体は始め駿府の南東の久能山(現久能山東照宮)に葬られ、一周忌を経て江戸城の真北に在る日光の東照社に改葬される。
元和2年12月(1617年1月)には2代将軍・秀忠によって東照社(現・久能山東照宮)の社殿が造営された。家康の遺命は久能山への埋葬および日光山への神社造営であったので、日光山の東照社(現・日光東照宮)もほぼ同時期に造営が始まっている。日光山の東照社は3代将軍・家光の代になって「寛永の大造替」と呼ばれる大改築がされ、徳川家康を祀る日本全国の東照宮の総本社的存在となった。同時に家光は久能山の整備も命じており、社殿以外の透塀、薬師堂(現・日枝神社)、神楽殿、鐘楼(現・鼓楼)、五重塔(現存は無い)、楼門が増築された。
今回、久能山東照宮を見学して、その内容を知りました。
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